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2013-10-04 20:03 | カテゴリ:たわごと
昨日、またひとつ歳をとりました。
今も続く冒険の始まりは、ちょうど30歳の誕生日の3日後でした。
気づけばあそこから、もう9年も経ってしまったのです。

1年後には不惑と呼ばれる四十歳。
ようやく少しずつ、惑わなくなってきたこの頃、
昔の不安定だったころの自分を思い出しては、年を取るのも悪くないとつくづく思います。
満足のいく30代を送れていることを誇りに思い、またその幸せに感謝しています。

ところで、こんな歳になっても表向きは大学生。
そして相変わらず見た目も若く・・・
これは御年90近くにして70そこそこにしか見えない母方のご先祖女子たちの若さにつけても、
間違いなく遺伝子に組み込まれたものだと思いますが、ありがたいといえばありがたい。
でも、この実年齢と不釣り合いな入れ物は、ときに人生を不都合なものにするのです。

特に年若い日本人のと付き合うときにストレスに嫌気マックス。
なんというか、リスペクトされないのです。
第一に見た目が若いから同年代だと思われる。
なのに、女が若いことがもてはやされる日本人にとっては内実シジューが近い女なんて「おばさん」であり、
やっぱり「おばさん」には幾分侮蔑的な気持ちがこもることは否めません。

別に、崇め奉れと言っているのではないのですが、
人ととして年相応の対等感とリスペクトは、わたしにとっては人付き合いのキーワード。
ここがうまくいかないジレンマは結構致命的なのです。

ところがこの夏、このストレスマックスのわたしの前に神が降りてきた。
以下、神のお告げです。

「あえてオバチャンになりなさい」

歳を重ね、少しずつ落ち着いて、意地悪でも高飛車でもなく、
それでもものをはっきり言えるようになるということ、それだけのベースを持つことこそ、
歳をとることの美徳だと気づいたのです。
それをするには、いつまでも無駄に控えめな若者ではイケナイ。
若者が無駄にはっきりものをいうというのは生意気でしかないのです。

でもわたし、年寄じゃないけど、もう若者でもないんですもの。
ええ、精神的にはいつも闘いを挑み続けるそういう若いものはもっていますけれども、
それなりにいろんなことやってきてます。嘴はもう黄色くないんです。

それでね、いろんな言いたいことを言っても、当たり障りないのがオバチャンキャラだなって。
すこしずっこけたぐらいのオバチャンは、若者から笑いながらも自分とは別次元のものとして受け入れられる。

日本人特有の「うち」「そと」の感覚だとおもうけど、
「うち」のものはみんな均質じゃないといけなくて、
異質のものは排除しようとする(いじめの法則)。
けれど、「そと」のものになってしまえば、建前でお付き合いが効くから、
異質なものも表層的には受容できる。

「日本人の学生同士」とかのくくりで「うち」にいるのに、
なんだかちょっと知ったかぶったことを言ったり経験のありそうな異物に見えるわたしを、
あえて自分自身で「オバチャン」にして、彼らにのっての「そと」に出すことで、
建前で付き合う人間関係になる。
ちょっとぐらい気に入らなくたって、変な人に見えたって、「オバチャンだからしかたないよねー」で済む。

いいか悪いかわかりませんが、内弁慶で、人に避難されることがまだ怖い私にとって、
堂々とものをいうには、このオバチャンという手段がいちばん。
今更オバチャンに変身したところで手遅れなシガラミまみれなところもあるのですが、
そこはしょうがないから放っておいて、
すでにあるところではばっちり功を奏しているので、これはいけると思われます。

全国のみなさーん、若いのもいいですけどね、
オバチャンも捨てたもんじゃありませんよー。

おわり。




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2012-10-21 19:56 | カテゴリ:みそじ大学生②
前の記事では得々と
翻訳はコミュニケーションの問題
ということを書いたのですが、
このコミュニケーションってやつは赤ぱぷりか最大の弱点です。

何を隠そう、わたくし、人とのコミュニケーションが苦手なのですわ。
コミュニケーションが最大の関心事、成功のキーポイントである現代において、
なんていう悲劇なのでしょう。

もっとも悲劇なんていうのは、外から見る観客の目に悲劇に映るだけであって、
その真っ只中を生きる当の本人にとっては、ただひとつの現実に過ぎず、
悲劇でもなんでもなかったりするのですが。

ただわたくしにとっての悲劇は
正しくコミュニケーションが出来ないダメ人間であるということではなく、
人生を賭ける対象が、自分の最大のウィークポイントと切っても切れない縁で結ばれていたということ。


これって致命的???

こんなコミュニケーション不全の人間が、はたして翻訳なんぞをしてしまっていいのでせうか。
いや、イケナイ気がする。
っていうか、デキナイ気がする。

・・・

あ、落ちました、奈落の底へ

首尾よく落ちがついたところで、つづきます。(またかよ。)



追記:タイトル "Pile et Face" はフランス語で「裏と表」、です。


2012-10-19 22:41 | カテゴリ:みそじ大学生②
これまでのハナシはこちら↓↓↓
コレもソレもみんな芸の肥やし①
コレもソレもみんな芸の肥やし②
コレもソレもみんな芸の肥やし③

さて、身の震えるような感動の体験から1年半、
わたくしはマスターに進み、「翻訳における同等性」を研究テーマにしています。
これは人生のテーマでもあるんだけど。

そしていろんな翻訳論とか、研究論文とか、日仏の文法書とかひっくり返しているわけですが、
何をどう翻訳するかを考える時に軸になる考え方も、結局は
何がメッセージで、何が伝えたいことなのか
にあるのだと気付いてしまいました。

ものすごく凡庸だけどわかりやすい例をあげれば
"rice"という英単語。 
日本語にすると米、ご飯、白米、ライス、メシ、しろまんま等々・・・
コンテクスト次第でおそろしいほどの訳語の可能性があるわけです。

じゃあどうやって、訳語を決めるのか。
この問題にぶち当たったとき、最終的には
このメッセージを発する人が、何が意図で、何を伝えたくて使った語なのかを考える、
これに尽きるのです。それだけで自然に訳語は絞れてくる。

翻訳のエキバランス(同等性)とは、発話意図を別の言語環境でも達成させるもの
これが今の赤ぱぷりか的翻訳論の中心の考えです。

そして、今よりもっともっとビギナー翻訳者だった頃のわたくしには、
決定的にこの視点が抜け落ちていたはず。

子供の頃から文章を書くのが比較的得意だったがために、
書き手の意を汲むことより自分の文章力をひけらかすことに気を取られ、
原文と真摯に向き合うことをしていなかったように思います。

このところ、心をわしづかみにされている翻訳論の授業でも、
翻訳に必要なのは語学力ではなくテキストとの対話である
と言われました。

ああ、これってまさに、あの膨大な量のテープ起しの時に学んだことではありませんか!
翻訳にはダイレクトになんの役にも立ちそうになかった授業のテープ起し、
わけもわからず必死にやってきてよかったと、
こんな思いがけないところで実感させられるとは・・・

ちなみに、自分の研究テーマを模索していたとき、決定打をあたえてくれたのも、
ふと思い出して引っ張り出した本の1節。
でもこの本、実は学士1年目に、興味もへったくれもなかった民俗学の授業で
試験用にいやいや読んだ本でした。
あの時、あの本を読んでいなかったら、今の研究テーマに辿りつけてなかったかもと思うと、
いやはや、大学のカリキュラムは宝箱ですわ。

なかなか食わず嫌いしないのはムズカシイけど、
どこで何が自分の身を救ってくれるかわからんものですね。

コレもソレもみんな芸の肥やしと思って、
いろいろやっていきます。

よし、まとまったぞ!
完!!


2012-10-19 20:13 | カテゴリ:みそじ大学生②
これまでのハナシはこちら↓↓↓
コレもソレもみんな芸の肥やし①
コレもソレもみんな芸の肥やし②

そう、そして膨大なテープ起しの末に、眠りから醒めるように感じたことは
授業は先生からのメッセージ♪

てれてれと学校に行っていた若い頃には思いつきもしなかったし、
ふつうに授業に出席して聞き流していただけでは、こんなことは感じなかったはず。
ある短期間で、何ヶ月かにわたる十数回の授業をぎゅっとまとめて聞いたことがよかったのだと思います。

・・・もっとも、大量のディクテノートを見て、相方にも友達にもビョーキ扱いされましたが(笑)

この偉大な発見をしてから、
授業に一貫して流れる先生の伝えたいことがビンビンと伝わってくるようになりました。
このメッセージさえ受け取れば、自然と合格点がとれることもわかりました。
あとは自分なりの料理の仕方とか、それを再現する言語運用力とかでプラスアルファがついていくんだろうけど。

そして、この人が伝えたいメッセージは何か?ということ意識を集中させられるようになってから、
それまで聞き取るのが苦手だった授業やらコンフェランスが画期的にわかるようにもなりました。

音の洪水でしかなかった外国語が、あるとき突然意味を持つ言葉に聞こえるようになった時のあの感覚。
ただ単語の行列だった誰かの言葉が、あるまとまったメーッセージだと感じた瞬間。


これ、人生で一位二位を争う、身の震えるような感動的な体験でした。
ああ!思い出すだけで興奮します。

ということで、まだ言いたいことまでたどり着けずにハナシは次へと続きます・・・
2012-10-19 17:53 | カテゴリ:みそじ大学生②
ここまでのハナシはこちら↓↓↓
http://paprikahakase.blog103.fc2.com/blog-entry-51.html

そして迎えた1年目後期。
とりあえず全部授業を録音して聞きなおす試みに出たのですが、
この時点では、まさかあのドM勉強法をするようになるとは思ってもいませんでした。

そのドMな勉強法とは

授業を全部ディクテする

要はテープ起しです。

いや、最初はね、授業をただ聞きなおそうと思っていただけなのですが、

早すぎて頭がついていかなかったり
複雑すぎて聞いてるだけじゃわからなかったり
初めて出会う専門用語のスペルがわからなかったり

そんなこんなで、録音を聞きながらノートをとっていたら、
いつしか丸ごとテープ起しをするようになっていました。

でもこれ、天文学的な時間がかかります。
毎週繰り広げられる数科目の授業(×1時間半か2時間)を聞きなおすだけでも軽く半日。
さらに悲惨なのが、正確に聞き取ってノートに書き留めるとなると、
ひどい時には3分聞き取るのに3時間かかったりするわけです。

遠い目・・・

そして1年目後期の試験勉強はほとんどこのテープ起しで終わり、気付けば試験前日だったとき、
ワタシは一体何をしていたんだろうと途方に暮れました。
それ以外のいわゆる試験勉強ときいてイメージするようなことが、何ひとつできなかったのですわ。

・・・でも結果的に言うと、これが大正解だったのです。
例の点の取れない歴史の試験も、誰のノートもかりずに一発合格でした。

そして、このとき、わたしは眠りから醒めるみたいに、あることに気付くのです。

やっぱり長くなりそうなので、つづきます・・・

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